四阿の静謐 -castitatis lilium-

台湾の台北在住。台湾企業に勤める会社員。日々の記録。

赤さん、エエね。けど、俺には関係ないし。

最近、周りが赤さんラッシュ。

三ヶ月前ぐらいに妹が出産したのを皮切りに、

  • 永らく連絡をとってない元同僚がいきなりラインで赤さんの写真を送ってきて『パパになった』
  • 37歳の同僚女性(一応お昼仲間)が安定期に入ったと言って妊娠をカミングアウト
  • 同僚の韓国人男性と飲みに行ったら、ご自身の赤さんが如何に可愛くて素敵かを力説
  • 割と気の合う33歳の女性同僚と飲みに行こうと話してたら、つい先日妊娠検査薬で陽性が出て、昨日病院で妊娠確定

ってな具合に。なにこれ?ぷちぷちぷちベビーブーム?

 

だからなんだよ、という話なのだが、ワタクシも34歳という微妙なお年ごろでして、お付き合いしている殿方はあれどケコーンはまず無いねという感じなのだ(ふりんじゃない)。だから未知(赤さん)との遭遇の可能性は皆無なのですが。

わたしは覚えている限り、18歳くらいからケコーンはしないと公言しており、今でもその思いは変わらない。むしろ、周りの実際にケコーン生活をおくる方々の人生話を拝聴すればするほどますますその思いは強くなり、自分にはできない生き方だなあという気持ちを深めている。わたしがほしいのは人生のパートナーであり、新しい家族を作るとか、家どうしのつながりが出来るとか、命のリレーを受け継ぐとか、そういうものに全く興味関心がないのである。個人対個人の関係がベストで、それに色々付随してくる複雑に絡み合った人間関係は御免被りたい、というのが本音のトコロ。もちろん、赤さんもその『付随する人間関係』に含まれる。

 

ある人が自然に『子供がほしい』と思うのと同じように、わたしは自然に『子供が欲しくない』と思う。何故、と聞かないでほしい。子供がほしいと思うのに、他人を納得させられるような強固な説得力のある理由が必要でないのと同様に、わたしも明確な理由など無いが、欲しくないのだ。ただそれだけの話。強いて理由を探すなら、自分の血を受け継いだ存在がこの世に生を受けるのが耐えられない、といったようなことになるだろうか。子供というのは、わたしが生きているからこそ生まれ得る存在で、どこかで聞いた言葉を借りれば『自分が生きた証』みたいなものだとも言えるらしいが、自分が死んだあともそれが残るのは絶対に嫌。

生まれてきたが最後、そのお人はわたしが死ぬまで、死んだあとも、ずーっとわたしに係属する存在になる。一生消えない血の刻印が刻まれる。切っても切れない関係が生まれる。こないに恐ろしいことがあるやろか。その人の親という関係性とそれに付随する責任は、生涯わたしの心に重圧としてのしかかる。辞めたくても辞められない。逃げようにも逃げられない。距離的には逃げられようが、精神的にはいつまでもその存在からは逃れられへんし、なにより『血』という物理的なものは、全身の血ぃでも入れ替えない限り変えられない。無償の愛、何があっても味方、許すことと癒やすこと、手本になること、教え導くこと……『親』という役割が自分に課せられるのを想像するだけで、そのあまりの絶対正義さと公明正大さに窒息させられそうになる。親になるんいうんは、今の自分を殺すことや。

子供は自分を一生懸命慕ってくれる、それがもう愛おしくてならない、というのを聞いたことがあるが、わたしにとってはそんな状況恐怖以外の何物でもない。そんな愛情求められてもご提供できないです。あなたに対して何の責任も持てないです。さも当たり前のような顔をしてわたしにありとあらゆる庇護をねだってくる、子どもという存在が恐ろしくてならない。子供至上主義の大人にも耐えられない。

 

昨日妊娠が確定した同僚は、妊娠ってこんなに幸せなことだったんだ、女性に生まれてよかったと心から思えた、と教えてくれたけれど、どうやらわたしとは無縁の幸せであるようだよ。