四阿の静謐 -castitatis lilium-

台湾の台北在住。台湾企業に勤める会社員。日々の記録。

見ないことは精神衛生に多大なる好影響を及ぼす。

視界に入らないだけで、全然気にならなくなる。

何の話かっていうと、職場の嫌いな同僚のことだ。言い訳すると、あちら様がある日突然私を無視するようになって、それ以来一言も口を利かない。
仕事でメールが来るときにも、あて名書きは一切なし、他の人あてのメールに私のアドレスが入っているだけか(仕事は私の担当なのに)、クライアントからのメールをそのまんま転送してくる(本文が何もないメールが来る)だけ。
どんだけ人を馬鹿にしてるんだろうと思う。

その人は確かに仕事ができて、短期間でものすごい出世を遂げている。難関資格を取り、外国人でありながら社長に重宝され、パートナーたちの信頼を(たぶん)勝ち得て、今では我々を顎でこき使う殿上人になった。
その人を高く評価する声も、敬遠する声も、同じくらい聞こえてくる。それだけ人の注目を浴びている、人に気にされているのがすごい。仕事人としては価値ある存在だと言えるんだろう。
でも私は嫌い。人として軽蔑している。

今年に入ってしばらくたってから、業務転換でフロアが変わり、その人を見かける回数が格段に減った。以前は同じ部屋で、なおかつ席が近かったので、視界に入るわ声は聞こえるわでほぼ毎日胸糞悪かったのが、今では一週間に1、2回、それも後姿をたまたま見るくらいになった。

そうすると不思議なもので、その人の存在をほぼ気にすることがなくなった。その人の存在を感じることで、毎日カリカリイライラモヤモヤしていたのが嘘のようだ。もちろんほかのこと(仕事のこと、他の人間関係のこと)でやっぱりカリカリイライラモヤモヤしているのだが、精神衛生度が全く違う。
視界に入らないだけでこうも楽になるのかと、今日久しぶりにその人の後ろ姿を目撃して思った。というか、普段はその人の存在すら思い出すこともない。今こうして日記を書いているときは、その人のことをある程度思い浮かべているのでやや不快だが、仕事をしているときは、その人のことが頭をよぎることもない(失敬メールが来れば、そりゃ嫌な気持ちになるが)。

視覚情報って本当に、心の在り様への影響度が高いんだなあ。
こりゃ、相方の前でほとんど笑顔を見せていない私は、結構やばいのかもしれないと、別のことが心配になってきた。

 

もう人に助けを借りちゃおうぜ。

翻訳の仕事を進めているのだけど、契約書なので、なにぶんわからない用語がたくさんある。
そこで、言語交換をしている友人に翻訳の仕事が来たことを話した。彼女はもともと公務員だったところから翻訳の仕事を受け始めて、今ではフリーの日中翻訳家だ。私も彼女のようになりたいと話したところ、以前からいろいろアドバイスをくれていた。

自分ではどうにもならないことがあったら、人の手を遠慮なく借りる。それができるようになってないと、老後まで一人で生きるのは難しいんだろうと、漠然と思い続けている。素直に助けを求められる能力が、セーフティネットになるのだと。

「助けてください、力を貸してください」ということが、案外できない。迷惑がられたら嫌だな、という危惧が真っ先に来る。自分がダメ人間になるような気もする。
でもだから何?って最近思うようになった。迷惑がられたら、もう二度とその人に助けを求めなければいいだけの話だ。そういう匂いには(自称)敏感だから、すぐにわかる。助けを求める分野では私はダメ人間かもしれないけど、他の分野ではそうでもないこともある(かもしれない。希望的憶測)。だからもうそのまんま口にしちゃえばいい。「助けてほしい」って。

それで問題が解決したり、物事がうまく回るなら、それがいちばんええじゃないか。